長崎市議会観光客誘致・受入対策特別委員会は、5月23日世界文化遺産の端島(軍艦島)、国指定史跡「出島」、重要文化財「旧長崎英国領事館」、グラバー園など、観光客の誘致や本格的な受け入れの再開に向け、現地視察を行った。特別委員会の調査目的は、コロナ禍による観光業への影響を把握し、観光をめぐる都市間競争のさらなる激化に備え、観光客誘致と受入体制における課題を整理するとともに、観光客増加のための施策の推進に寄与する。調査方針は、現状及び課題を把握し、西九州新幹線開業を見据えた取り組みや、各観光施設を周遊するための仕組み、夜景観光の推進及び食や体験型観光について検討するとともに、ポストコロナを見据えた諸方策について調査、検討する。原則として毎月1回開催され、今回は長崎市内の観光施設を調査したので、その概要を掲載する。
端島は長崎港から南西約18kmの海上に浮かぶ、面積6.5haほどの小さな島で、高い護岸で囲まれ、その外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれる。端島は本来、南北約320m、東西約120mの岩礁の島であったが、6回の埋め立て工事によって1931年には南北に480m、東西に160m、面積にして約3倍の広さに拡張された。本格的な石炭の採掘は、1890年に隣の高島と同じく三菱の経営に移り、端島(軍艦島)は本格的な近代炭坑としての開発が進められてきた。端島炭坑は、炭坑の開発と並んで増加する従業員のための住宅建設が進められ、1916年に日本で最初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建設された。最盛期には5千人を越す人たちが生活しており、当時の東京都区部の9倍もの人口密度に達した。
しかし、石炭の島として一時代を築いた後、昭和30年代後半からエネルギー革命の影響を受け合理化が進み、1974年閉山し、同年4月に無人島となった。端島は重工業分野において、幕末から明治後期にかけて西洋技術を導入し、極めて短期間のうちに近代工業を支えてきた、産業遺産群である。2008年から2009年にかけて島内に見学通路及び見学場所の設備を行い、2009年4月から島内の一部に一般の方の上陸が可能となった。 端島は2014年に国の史跡に指定され、日本の近代化を象徴する遺構として注目を浴び、軍艦島クルーズが行われ観光面でも人気がある。平成28年度約27万人、29年度約29万人、30年度約18万人、令和元年度約14万人、コロナの影響で2年度約5万人、3年度約6万人と激減している状況にあり、ポストコロナを見据えた対応が急務である。