福田の千本松原は、24代福田長兵衛兼明が疱瘡で死亡する前年の元文元年(1736年)、その兼明が福田大番所加番役中において、津波よけとして田子島から崎山までの海岸沿いに多くの松を植えたことから、その名が付けられたと伝えられている。その松も虫食いなどで次第に枯れて、昭和19年頃にはほぼ全滅状態になった。現在、千本松原にわずかに残る松は、由緒ある史跡でもあったことを考慮し、昭和24年昭和天皇が長崎巡幸に際し、長崎県に対し松の苗木100本分の御下賜金があったうちから、50本分を福田村に賜り千本松原に植樹したものと思われ、現在、福田中学校裏側に数本の大きな松が残っている。この地には、安政2年(1855年)福田台場(砲台)が設けられ、一の台場・ニの台場・三の台場・四の台場と、かつて4つの砲台があった。
福田村の鎮守さま「天満宮の再興」創立号不知、寛永12年(1635年)田子島(現在のあこうの木付近)に再興する。天満宮が現在地に移されたのは、天和元年(1681年)のことで社地を天満宮元屋と称し、付近の林を「宮林」と言われている。現在の天満宮下脇で旧寺跡(大音寺)の畑を土地の者は、「邪宗門・ジャーモンガシラ」つまりキリシタンの教会跡ではないかと伝えられている。当時の福田村は、大名として最初にキリシタンの洗礼を受けた大村純忠の勢力下にあった、福田氏17代兼次の時代でありその兼次をはじめとして、村民の大半がキリシタンとなる状態だった。福田村の領民がキリシタンになった経緯は、永禄8年(1565年)の福田浦開港によるポルトガル船の入港が大きく関わっていた。宣教師らの記録によると「1,200人にも達した」とある。
福田村には、入り江あるいは港を意味する地名が多いことがわかる。それは、海に面していることに由来し、大きな浦があるところを大浦(大浜)、小さな浦があるところを小浦、浦の中程(手熊と神浦との中間)にあるところを中浦、浦の上手にあるところを上浦とそれぞれの地名が付けられたものと考えられる。また、福田浦開港当時から船着場であった小浦船津の地名も船が着くところから船津となったと思われる。かつて異国船警備の要所であった福田大番所から藩船の船囲い場へは、福田城址下の「若竹峠」を越えていた。若竹峠から海に到る崎山の地形を波よけとして利用し、異国船警備に備えた船を係留する波止場(現在はフレスポ福田横の波止場)として、文化6年(1809年)初めて福田浦に設けられ、ロープを結ぶ石柱も残っている。(福田郷土史より)