福田地区公民館は、3月20日(日)10時から福田支所前から福田本町地区を中心に、福田の昔を訪ねて4時間コースで25名が参加して「福田さらく~福田史跡探訪」を開催した。「福田さらく」は、福田中学校校区育成協議会を中心に30数年前に福田史跡付近に案内板を設置し、福田の歴史を知ってもらおうと、現在は公民館講座として毎年開かれている。今回は、西公民館区中学校区育成協役員も出席し、福田育成協の中村・松本両名が講師(ガイド)となり、福田の地名、大判所、門役所、福田浦の開港、ペーロンの由来、千本松原、福田村の教会、福田古城跡、「だんどん様」等を訪ね福田の歴史を学んだ。福田郷土史から抜粋された「福田さらく」資料も配布されたので、その概要を紹介する。
旧福田村は、平安時代の末期の治承4年(1180年)隈平三(平兼盛)が老手村・手隈村の地頭職として後の福田村を治めることになって以来、江戸時代後期の文化11年(1814年)領地を没収されるまでの約634年の間、隈氏改め福田氏が治めてきた。その福田氏は、安土桃山時代にいたって大村氏の勢力下に入り、大村純忠の要請に基づき福田浦をポルトガル船の貿易港としたことで、一時期村民の大半がキリシタンとなったばかりか、そのポルトガル船の入港は、後に長崎開港の幕開けとなった。徳川幕府の鎖国政策に伴い、唯一の貿易港であった長崎市中の治安維持を命ぜられた。そこで、福田村・戸町村は貿易港の入港に伴う警戒警備、あるいは長崎異変(異国船及び貿易に絡む事件等)時に「福田固め」「戸町固め」と称する警備隊が配置されるなど重要な役割を果たしてきた。
元亀2年(1571年)ポルトガル船が長崎港に移る時に小番所が出来、相川左衛門が最初の番所役人になった。福田番所は、寛永13年(1636年)徳川将軍3代家光の時に設けられ、同18年には大番所(旧郵便局裏の宮崎宅)となり、それ以降戸町・式見・三重そして黒崎までの小番所を統合し、その警備にあたると共に宗門を戒禁し併せて毎月各番所から土民から證藩(絵踏み結果)を集めていた。丸木門役所は、寛政3年(1791年)に設けられ、設置の事由はおそらく異国船との密貿易する者、あるいはこれにあやかろうとする商人たち出入りを監視し、併せて隠れキリシタンのチェックをする目的があったと思われる。また、門役は元来庄屋と同様、特に漁業地区を中心とした村役的な役割があり、いわば漁村の村長でもある。(福田郷土史より)