福田小学校区コミュニティ連絡協議会歴史・伝統部会は、3月27日10時から福田地域センター前に30名超が集合し、山口広助さんを招き「福田さらく~史跡探訪~」を開催した。山口広助さんは、長崎ケーブルメディア「長崎ぶらぶら好き」「ヒロスケの歴史さんぽ」などで、長崎のまちを歩きながら史跡の紹介、長崎の歴史や魅力を伝えている。旧福田村は、平安時代の末期の治承4年(1180年)隈平三(平兼盛)が老手村・手隈村の地頭職として後の福田村を治めて以来、江戸時代後期の文化11年(1814年)領地没収までの約634年の間、隈氏改め福田氏が治めてきた。その福田氏は、安土桃山時代に大村氏の勢力下に入り、大村純忠の要請に基づき永禄8年(1565年)の福田浦開港によるポルトガル船が入港し、後に長崎開港の幕開けとなった。
福田村の鎮守さま「天満宮の再興」創立号不知、寛永12年(1635年)田子島(現在のあこうの木付近)に再興する。天満宮が現在地に移されたのは、天和元年(1681年)のことで社地を天満宮元屋と称し、付近の林を「宮林」と言われている。現在の天満宮下脇で旧寺跡(大音寺)の畑を土地の者は、「邪宗門・ジャーモンガシラ」つまりキリシタンの教会跡ではないかと伝えられている。当時の福田村は、大名として最初にキリシタンの洗礼を受けた大村純忠の勢力下にあった、福田氏17代兼次の時代でありその兼次をはじめとして、村民の大半がキリシタンとなる状態だった。福田村の領民がキリシタンになった経緯は、永禄8年(1565年)の福田浦開港によるポルトガル船の入港が大きく関わっていた。宣教師らの記録によると「1,200人にも達した」とある。
山口広助さんによると、福田村は入り江あるいは港を意味する地名が多いことがわかる。それは、海に面していることに由来し、大きな浦があるところを大浦(大浜)、小さな浦があるところを小浦、浦の中程(手熊と神浦との中間)にあるところを中浦、浦の上手にあるところを上浦とそれぞれの地名が付けられたもの。旧福田郵便局の裏側にある石垣は、そこまで波が押し寄せていた証であり、当時を思い浮かべてほしい。西光寺の石垣は歴史を感じる、当時の土木技術が優れ財力もあり、城の石垣に匹敵するもの。福田天満宮の鳥居は、昭和4年創建されたもので、鉄筋コンクリート製、天満宮のネームプレートは銅板で貼り付けられ高い技術がうかがえるなど、福田の歴史を再認識した。