大浜町自治会は、10月22日10時から千本松原(福田中学校裏側)に50名超が集合し、中村勝文氏(福田本町)より説明を受けながら「福田の歴史散策&バーベキュー」を開催した。福田の千本松原は、24代福田長兵衛兼明が疱瘡で死亡する前年の元文元年(1736年)、津波よけとして田子島から崎山までの海岸沿いに多くの松を植えたことから、その名が付けられたと伝えられている。その松も虫食いなどで次第に枯れて、昭和19年頃にはほぼ全滅状態になった。現在、千本松原にわずかに残る松は、由緒ある史跡でもあったことを考慮し、昭和24年昭和天皇が長崎巡幸に際し、長崎県に対し御下賜金があったうちから、福田村千本松原に植樹したものと思われ、福田中学校裏側に数本の大きな松が残っている。
この地には、安政2年(1855年)福田台場(砲台)が設けられ、一の台場・ニの台場・三の台場・四の台場が築かれ、異国船の襲来に備えるため十二門の大砲が設けられた。四の台場跡には、直立1間(約1.8㍍)、勢留樫14間、横4間半11尺、土手長17間、横2間半、石火矢3挺・内12ポンド(1ポンド453.6 ㌘)1挺・周1貫目(3.75㎏)1挺・700貫目1挺と説明板に記され、他の台場もほぼ同様の規模である。旧福田村は、平安時代の末期の治承4年(1180年)隈平三(平兼盛)が老手村・手隈村の地頭職として後の福田村を治めて以来、江戸時代後期の文化11年(1814年)領地没収までの約634年の間、隈氏改め福田氏が治めてきた。その福田氏は、安土桃山時代に大村氏の勢力下に入り、大村純忠の要請に基づき永禄8年(1565年)の福田浦開港によるポルトガル船が入港し、後に長崎開港の幕開けとなった。
福田本町の歴史散策では、事代主神社祠がある付近に、寛永12年(1635年)福田天満宮が再興された宮林を訪ね、再三津波に襲われて天和元年(1681年)、現在の地に移され、宮林付近には津波よけの石垣が残っている。その後、丸木館屋敷、火渡しの橋、南蛮船の飲料水として使用したオロシャ井戸、寛政3年(1791年)福田への出入りが激しくなったため旅人を改める丸木門役所、番所跡、力士の記念碑、舟津の波止場など、2時間コースで散策した。大浜公園には丁度12時に到着、前日・当日準備していた冷たいビール・お茶でそれぞれ乾杯し、バーベキューで肉・焼きそば・おにぎりを食し、親睦・交流を深めあった。秋のレクリエーション、青空のもと楽しい一時を過ごした。