2021年1月26日(火)「長崎開港の幕開け(福田浦)」!

長崎開港450周年記念事業関係を「備忘録」に掲載したが、長崎開港の幕開けとなった「福田浦」の歴史について、2016年3月22日・23日の「備忘録」にアップした「福田さらく~歴史探訪~」より再掲した。旧福田村は、平安時代の末期の治承4年(1180年)隈平三(平兼盛)が老手村・手隈村の地頭職として後の福田村を治めることになって以来、江戸時代後期の文化11年(1814年)領地を没収されるまでの約634年の間、隈氏改め福田氏が治めてきた。その福田氏は、安土桃山時代にいたって大村氏の勢力下に入り、大村純忠の要請に基づき福田浦をポルトガル船の貿易港としたことで、一時期村民の大半がキリシタンとなったばかりか、そのポルトガル船の入港は、後に長崎開港の幕開けとなった。

当時の福田村は、福田氏17代兼次の時代でありその兼次をはじめとして、村民の大半がキリシタンとなる状態だった。福田村の領民がキリシタンになった経緯は、永禄8年(1565年)の福田浦開港によるポルトガル船の入港が大きく関わっていた。宣教師らの記録によると「1,200人にも達した」とある。元亀2年(1571年)ポルトガル船が長崎港に移る時に小番所が出来、相川左衛門が最初の番所役人になった。福田番所は、寛永13年(1636年)徳川将軍3代家光の時に設けられ、同18年には大番所(旧郵便局裏の宮崎宅)となり、それ以降戸町・式見・三重そして黒崎までの小番所を統合しその警備にあたると共に宗門を戒禁し、併せて毎月各番所から土民から證藩(絵踏み結果)を集めていた。

福田村には、入り江あるいは港を意味する地名が多いことがわかる。それは、海に面していることに由来し、大きな浦があるところを大浦(大浜)、小さな浦があるところを小浦、浦の中程(手熊と神浦との中間)にあるところを中浦、浦の上手にあるところを上浦とそれぞれの地名が付けられたものと考えられる。また、福田浦開港当時から船着場であった小浦船津の地名も船が着くところから船津となったと思われる。かつて異国船警備の要所であった福田大番所から藩船の船囲い場へは、福田城址下の「若竹峠」を越えていた。若竹峠から海に到る崎山の地形を波よけとして利用し、異国船警備に備えた船を係留する波止場(現在はフレスポ福田横の波止場)として、文化6年(1809年)初めて福田浦に設けられ、ロープを結ぶ石柱も残っている。(福田郷土史より)

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